新宿区牛込えぱた教会

ここは、エドウィン・ライシャワー元大使と、宣教師クレーマー女史が建てた、聾唖者も来られる口話法の教会。

エドウィン氏の妹のプリシア・ライシャワー女史が米国で口話法を学んできて、それを日本人に伝えたことで、日本の多くの聾唖者が救われた。

プリシア女史は、天使のような存在。

文部省の指導のもと、日本の多くの聾唖学校が手話で指導しているにもかかわららず、日本聾唖学校では、口話法を指導している。

口話法の何が素晴らしいかというと、顔の表情が豊かで、これを学んだ人の表情はともかく美しい。

手話での会話をしている人や、もっとひどいのになると筆談をしている人の表情は固く、人間ではないような頑なな表情で、人間は、いかに顔の表情が大切なのかわかる。

 石田先生が従軍して、インドネシアで捕虜になった時、部隊全員をキリスト教に改宗させ、収容所でミサを行った。

 それを見ていた敵国兵士たちも、ミサに参加したいと、石田牧師に頼み、敵味方関係なく一緒に讃美歌を歌ったという逸話に感動した。

 

 石田牧師のお葬式の写真を今、探しているところ。

 石田栄一牧師が引退した時は、本当に悲しかった。

 石田牧師は、練馬区へお引越しになられた。

 それなのに私ともう1人くらいしかいなかった水曜夕方の聖書クラスのために練馬からいらして下さった。

 ありがとうございます。



 クレイマー宣教師は、ご自身が日本で働いて得たお給金のほとんど全てを、この教会設立のためにご提供なさった。

 この教会は、特別な教会だった。

 私は母に連れられ、祖母の思い出の教会を教えられた。

 祖母は、えぱた教会で、ライシャワー氏の妹さんに手解きをした様に、日本画を教えていた。

 私がまだ幼稚園くらいの時、クレイマーさんがうちに祖母を訪ねてよくいらしていた。

 長い間私は、外国人と普通に話ができると思っていたのだが、なんのことはない、クレイマーさんが  私に日本語で話しかけていただけだったのではないか。

 母は生誕祭にお祝いを送るだけで、epata教会に通っていたわけではない。

 あと長い期間ではないけれど、石田牧師が定年で教会を去られるまで、毎週通った。

 神様の御庭番をしたかったから、庭の手入れをした。

 教会が終わっても帰らず、ガマガエルを見ながら、藪蚊に刺されながら、ずっとお庭の手入れをしていた。

 祖母、大前静が描いた「連翹」が美しく咲いていた。 

ちなみに絵画『連翹』を彫ったのは、元夫の船崎光二郎。

この思い出深い教会がどのように失われたかを、私は目の当たりにしたからわかる。

石田牧師が引退なさった後、サラリーマン牧師の時代になった。

時間にプログラムだけこなして、愛がなかった。

若いから仕方なかったのかもしれない。

 サラリーマンが辞めて、教会員の決議で(私は足繁く行っていたけれど、教会員ではなかった)、この教会はある人々の手に落ちた。

多数決は恐ろしい。

 判断力のない精神病の人まで頭数に入れて、わずか数名による多数決を取った。

もう何も言うまい。

 今は、クレーマー女史やライシャワー博士が愛したあの教会は、新しいマンションになって、その一角に教会がある。クレーマー女史がご覧になったら、なんとおっしゃるだろう。

 

 その後私は、まだ斎藤牧師だった時代のルーテル教会へ行き、引越すまで8年位、毎週通い、教会祭りで踊り、良いお友達を作り、今でも交流があり、その間にアラム語の教会でキリスト教とイラク人難民たちに祝福されて洗礼を受けることになる。